読書: 小さなチーム、大きな仕事 37シグナルズの成功の法則
小さなチーム、大きな仕事 37シグナルズの成功の法則(原題:REWORK) ジェイソン・フリード デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン 早川書房
小規模な会社や個人事業主ほど、人的にも資金的にも限られているのは当たり前のことだ。そういう環境でも大手と対応するためにはどうすればいいのか。どうすれば勝負できるのだろうか。結局、資金的にも人的にも圧倒的に優位なところが最後には勝つのが世の常ではないのか。
その答えとして、この本はヒントになるかもしれない。37シグナルズというのは、BasecampなどのWebサービスや、Ruby on Railsというフリーソフトで有名だ。現在では、社名をBasecampへと変更しているが、この本はその前に出版されたものだ。
僕たちは小さく(この本の出版時点で16人)、質素で利益をあげている。
と本の中でも述べているように、彼らは実際に成果をだしている。
この本は、彼らが経営するなかで得てきた知見がエッセイとしてまとめられている。一つ一つのエッセイは短くシンプルだ。基本的にどのページからでも読んでもいい。基本的にはソフトウェア開発から派生するようなテーマが多いけれど、他の業界の人が読んでも参考になるだろう。
すぐに実行できるような具体的なノウハウが書かれているのではなく、目指すべき方向性が簡潔に語られていくだけなので、読む人によっては物足りないかもしれない。
すべてに同意できるわけはないし、本当にこんなのでうまくいくのかと疑問もあるが、自分で考えるためのきっかけになった。
エッセイの話題は幅が広くて参考になる話が多かったけれど、そのうち3つだけとりあげてみる。
競合相手以下のことしかしない
競合相手に勝つためには相手よりひとつ上を行かなければいけない。そういう考えに対して彼らはこう言ってる。
このようなひとつ上を行くという冷戦のような考え方は行き詰まる。軍拡競争に巻き込まれたときに行き着く先は莫大な量の資金と時間と意欲を消耗する終ることのない戦いだ。
競合相手を打ち負かすには、なにごとも相手よりも「少なく」しかしないのだ。簡単な問題を解決して、競合相手には危険で難しく扱いにくい問題を残す。
もちろん彼らは単に機能が少なければいい、と言っているわけではない。別のエッセイ「商品をありふれたものにしない」では、決し他の人がマネできないことをしろ、とも言っている。
まずは自分自身から
ビジネスの世界では自分がすべきことだけに集中し、それ以外は他者に委譲することは必要なことだ。ただその結果、専門外のことが全くわからないという状況がでてくる。それを回避するために、彼らは最初のうちは出来るだけ自分たちでやることにしている。
一般的には、自分だけでなんでもやろうとすることは無駄であり効率が悪いと批判されるだろう。しかし彼らは、なんでも自分ですることで、知識も得られるし、人を雇うときになっても、どんな人を選べばいいかもわかるようになるのだ。
さらに
ビジネスの全面に密に関わるべきだ。でなければ、他人の手に自身の運命を預けることになる。それは危険なことだ。
とも主張している。
これは会社を必要以上に大きくしないという方針とも関係があるだろう。自分たちの目が常に行きとどくようにするには、会社が適度な大きさでなければ難しいのだと思う。
変らないものに目を向ける
次から次へと新しいものが登場しては消えていく。目新しいものに目をうばわれて、新しいことをしたくなる。そうやって流行り廃りに振り回されてしまうのは、小さな会社だと命とりになってしまう。そうならないためにはどうすればいいか?
彼らの主張はごく当たり前のことに思える。
ビジネスを立ち上げるのなら、その核は変わらないものであるべきだ。人々が今日欲しいと思う、そして10年後にも欲しいと思うもの。そうしたものにこそ力を投入すべきだ。
日本の自動車会社もまた、その根本の方針としては信頼、手軽さ、実用性といった変わらないものを追求している。
37シグナルズが焦点をあてているものは、早さ、シンプルさ、使いやすさ、わかりやすさだ。それらは、ずっと変らない要望だ。
小さい会社でソフトウェア開発をしているから、スタートアップ(新興企業)のように思われるかもしれないが、実際には手堅い商売人のようで、その姿勢に好感がもてる。実際、本のなかでは利益を出さなくても当たり前のようなスタートアップの風潮を否定的に語っている。
こういう堅実な面が見えるからこそ、他のページで書かれているような非常識と思える考えにも説得力がある。
さいごに
ちなみに著書のひとりであるデイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソンは、Ruby on Railsの生みの親なので、その話が登場することを期待するかもしれないが、残念ながらまったく出てこない。共著として表記されているが、そもそも誰がどのエッセイを書いたということは明記されていない。